外に出るということ
こんにちは、結城浩です。
いまは、明日の結城メルマガの配信予約が済んだところです。コーヒーを飲み過ぎて頭がくるくるしていましたが、ちょっと仮眠を取ったらだいぶ楽になりました。
あなたは、いかがお過ごしですか。
ここしばらくは毎日のようにメールが届きますが、もう少ししたら頻度は低くなってくると思います。恐らく。
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『ナルニア国物語』の作者であるC.S.ルイスに『天国と地獄の離婚』と言う作品があります。原題はThe Great Divorceです。作品の内容は神学的な寓話なのですが、いまは内容について書きたいわけではありません。その本に出てくる一つの文について書きたいのです。こんな文です。C.S.ルイス『天国と地獄の離婚』(柳生直行訳)より引用します。
私は、太陽系そのものでさえも屋内の事象にすぎない、というような意味で<外に>出たのであった。
この一文をいつごろ読んだのかはもう忘れてしまいました。恐らく二十代の終わりじゃないかと思いますが、はっきりは覚えていません。でもともかく、この一文を初めて読んだとき、何ともいえない感慨を抱きました。
外に出る。ただ単に外に出るのではなく、太陽系そのものでさえも屋内の事象にすぎない、というような意味で外に出る。それはどれほど大きく広い「外」だろうか。
先ほど引用した一文をいま改めて読んでみると、さらっと読み過ごしてしまいそうだな、と思いました。取り立ててピックアップしなければ瞬時に通り過ぎてしまうかも。
でも、当時の私は読み過ごしませんでした。そして本の隅に鉛筆で小さな丸を書きました。当時はそういう読み方をしていたのです。本を読んでいて、感銘を受けた箇所に丸印を付けておく。後で読み返すためです。
太陽系を引き合いに出しているのはもちろん、大きなレベルの「外」、高次のレベルの「外」を表現するためです。広大な太陽系を屋内に押し込めることによって、いま表現したい「外」の大きさを表そうというのです。
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私は、この表現をしばしば思い出します。たとえば朝、燃えるごみを近くのごみ集積場に持っていくために外に出る、そんなときに。太陽系が出てきたと思ったらずいぶん卑近な話になってしまいましたけれど。
あるいはまた、早朝に妻といっしょに近所を散歩するために外に出るときに。私は太陽系が屋内の事象にすぎないという意味での「外」を思います。
ごみを出すときにせよ、散歩に行くときにせよ、その日はじめて家の外に出るとき、私はいつも「ああ、そうだった。外というのはこういうところだった」と思うのです。
家の中から外に出る直前、私は無意識のうちに外を想像します。外に出たらこんな感じなのだろう、そんなことを想像します。でも、その想像は毎回裏切られます。扉を開けて一歩出た「外」は、想像よりも大きく、広く、かぐわしい。
そして、ルイスの文を思い出します。
私は、太陽系そのものでさえも屋内の事象にすぎない、というような意味で<外に>出たのであった。
外に一歩出ただけなのに太陽系を持ち出すなんて、なんて大げさな!
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家の中に留まること。
家の外に出ること。
そんな日常の出来事が、2020年には多くの人の関心事になりました。ステイホームが多くの人の助けとなるときもあり、自分の身を守るときもある。十分な注意を払いつつ外に出ることが経済的に誰かを助けるときもあり、精神的に自分を助けるときもある。
外に出るか、出ないか。そんな単純なことが2020年の関心事になるなんて、2019年には想像もしませんでした。
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いえ、特に結論めいたものはありませんし、人生訓を引き出すつもりもありません。ただ、あなたにどんなメールを書こうかなと思って、C.S.ルイスの「外に出る」一文をふと思い出しただけなのです。
今日の私は、こんなことを考えています。
今日のあなたは、どんなことを考えていますか。
お時間がありましたら、メールで返信いただけるとうれしいです。あなたの「外」についての思い出でもいいですし、このメールとは無関係のことでも構いません。
それでは、また。
今日はもうコーヒーはやめて、ルイボスティーにしようかな。