手を動かして考えるということ
こんにちは、結城浩です。
今日は編集部からの疑問点に対処した原稿ファイルを送りました。今回送った原稿で初校ゲラができてくる予定です。今週はネットで打ち合わせもあります。
メールは、相変わらず一日一通送っていますね。でもそのうち頻度は下がると思います。「そのうち」がいつなのかはまだわかりませんけれど。
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先日、ダイソンの掃除機を買った話はしましたよね。部屋に掃除機を掛けるのはけっこう好きな作業の一つです。洗濯物を干したり、台所の食器を洗うのも好きです。以前は食洗機を使っていましたが、最近は使っていません。夕食の野菜たっぷりサラダを作るのも好きな作業です。
そんな話を書いていると、家事が好きなんですねと誤解されそうになりますが、そうではありません。たとえば新しい料理を作るのはできないし、好きでもありません。
要するに私は家事が好きなのではなくて「いつもの手作業」をするのが好きなのです。さらにいうなら、いつもの手作業をしているあいだ、好きな考えごとをしているのが好きなのですね。手が自動的に動いて作業は進む。頭はそのあいだ自由に考えている。
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毎日「結城浩の作業ログ」を有料配信しています。二月から続けてきたので、だいぶたまりました。作業ログの中に、ときどきちょっとした文章を書くことがあるので、読み返してサルベージできないかと考えています。つまり、作業ログに書かれた文章を改めてきちんと書き直せないかなというのです。
そんなふうに思って読み返しているんですが、そうそうたくさん文章があるわけじゃないですね。作業ログはやっぱり作業ログであって、まとまった文章を書こうと思って書くものとは少し違うからです。また、作業ログの中にあってこそ意味を持つ文章だったりするので、切り出して書き直すのもなかなか手間が掛かります。
それはそれとして、自分が書いた作業ログを振り返ること自体はとても楽しい体験です。そういえばこのころは電子書籍の表紙画像作成ツールを作っていたなとか、この週はPDFの公開サイトを作っていたんだっけとか、そんなふうに自分の活動を思い出せるからですね。
時間はあっという間に過ぎ、呆然とすることもありますが、作業ログを読み返すとほっとします。自分はこの期間を無駄に過ごしてきたわけではない。そのときそのときの判断でいろいろなものを作ったり手直ししたりしてきたのだ。それがはっきりと記録に残っているからです。
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誰かと話すと、頭や心が活性化して、さまざまなことが思い浮かびます。文章を書くときも似たような現象が起こります。一人で書いているにもかかわらず、まるで誰かと話をしているように話題が広がり、気持ちが盛り上がる。そんな体験はよくあります。ライターズ・ハイとでもいうんでしょうか。
文章は秩序を求めます。文章は平仄を求めます。私はそれを文章が持つ内在律とよく呼びます。文章を書いていると、文章自体が慣性を持ち、進む方向を決めたがるのです。そしてその慣性はしばしば文章を整え、話を広げ、ある種のおもしろみを生み出す源泉となります。そして、そのおもしろみを最も楽しめるのは書き手です。
文章が生まれ出るその場に立ち会う。それは大きな喜びです。音楽を演奏する喜びに似ているかもしれません。カーソルの先から言葉が生まれてくる様子を眺めていると、この文章はここからどこに行くんだろうというどきどきがあります。発見も、驚きも、そして喜びも、カーソルの先頭から生まれてくるのです。
最近、音声で文章を入力するようになってから、必ずしもタイピングは文章が生まれ出る喜びと不可分ではないと知りました。それでもなお、自分の手の動きに合わせて新たな文章が生まれてくるのを見るのは楽しいものです。
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低温調理の鶏ハムを包丁で切るとき、サラダスピナーでレタスを脱水機のように回すとき、キャベツをスライサーで千切りにするとき、私の頭はいろんなことを考えます。台所で手を動かしながら、音声で文章を入力することもできるかな。今度やってみたいな。
今日の私は、そんなことを考えています。
今日のあなたは、どんなことを考えていますか。
気が向いたら、お返事くださいね。
それでは、また。